街の歴史遺産

笹谷街道

dohyo111サンカトゥール商店街の南端、岩手銀行角からはいる。旧称山根街道が笹谷街 道の起点と言われている。ここは奥州街道と笹谷街道の分岐点であり、岩手銀行向かいの川熊ビル(長町3丁目)の前には現在「笹谷道」という道標が立つている。
この奥州街道と山形を結ぶ横断道は、笹谷街道と呼ばれる以前より、古くは奈良時代から物、人、情報を運ぶ街道として栄え、江戸時代にいたっては塩魚、穀類、生糸、紅花などの物資や商人、そして出羽三山参りの旅人の往来で賑わった。
現代、我がサンカトゥール商店街は、同じく山形側の笹谷街道の起点である山形市七日町一番街商店街振興組合と姉妹提携し、さらには笹谷街道沿 いの川崎町商店会、西多賀商店街と連携の輪を広げ交流を図っているところである。

蛸薬師と舞台八幡神社

蛸薬師

takobutai1言い伝えによると、神社の斜め向かいにある長町病院の辺り(旧川熊邸)は昔は大きな池で、ある時洪水があって、水が引いた後をみると、池の中の島に薬師瑠璃光如来像が蛸に吸い付かれて流れ着いていた。そこで池の西側にお堂を建てて薬師様を安置し、村内で毎年5月 1日にお祭りをすることになった、ということです。
以来、この薬師瑠璃光如来像は蛸薬師と称され、信仰の対象として広く周辺住民に慕われてきた。特に、この蛸薬師はイボ取り薬師ともいわれ、イボ取りの願掛けの絵馬が表戸に所狭しと並んでいる。

舞台八幡神社

現ザ・モール長町映画館のあるモール・パート2の建物の西側に金岡八幡神社がありますが、もともとはここに舞台八幡神社が あったのです。
1056年に陸奥守源頼義が前9年の役の武運を祈り、近畿の河内郡平岡八幡宮を勧請して舞台八幡神社としてここに祭ったのが最初とされます。以前、南長町を平岡村といったのも、ここに 由来します。舞台八幡はその後郡山北目城の領主粟野氏が1560年に再興しますが、伊達政宗に滅ぼされて後は荒廃し、明治の中ごろに長町4丁目の蛸薬師境内に再建され今に至っています。

奥州街道

慶長6年(1601年)、伊達政宗が仙台の地に城下町を建設するのに伴い、奥州街道の宿場町として、長町、中田、増田などの各駅が整備された。
奥州街道は白河を起点に三厩(青森県)にいたる八十九次の街道である。仙台松前道、奥州道などとも呼ばれ近世奥州の幹道であった。

広瀬川と大年寺

広瀬川

hiroseriver1百万都市、杜の都仙台を流れる広瀬川は、市民とともに生き、市民とともに暮らしてきた、憩いと安らぎの川である。
この広瀬川は、朝日新聞社主催の21世紀に残したい「日本の自然100 選」の一つであり、全国でも珍しい源流から合流地点までの全てが仙台市内を流れる「自己完結水路」である。
市民に親しまれてきた広瀬川の灯ろう流しは、元をたどれば江戸時代の大飢饉による死者の霊を慰めるために始まった仙台の伝統行事で、平成元年、形を変え「光と水のコンサート」として広瀬川を舞台とした一つの仙台市民の文化として定着し、親しまれている。
近年、佐藤宗幸氏により青葉城恋歌のなかにもうたわれ、全国的にも大層有名になった。
また、長町から河原町にかかる広瀬橋は明治42年、日本で最初に造られた鉄筋コンクリート橋として当時、全国的にも大変注目されたものである。

大年寺

元禄10年、伊達家四代藩主綱村が、茂ヶ崎山の山上に建立した大伽藍で黄檗宗を宗旨とする。伊達家四代藩主以降の伊達家一族の菩提寺として江戸時代にはその門前町とともに賑わった。
このへんの丘陵地一帯を大年寺山といい、野草園とともに市民の散策路として親しまれている。

地底の森ミュージアム:富沢遺跡

地底の森ミュージアムは旧石器時代を中心としたテーマミュージアム。
ここでは富沢遺跡から発掘された2万年前の旧石器時代の遺跡面を現地で保存し公開するとともに、発見された資料などから当時の環境と人類の活動を生き生きとよみがえらせている世界でも珍しい遺跡が展示されている。
広瀬川より以南の地は現在でも仙台旧市街地に比べると1~2度暖かいといわれているが、長町一帯のこの地域は太古の昔より人が集まり住んだ地域といえそうである。

郡山遺跡

JR長町駅の東側一帯と、国道4号線(仙台バイパス)の間、東西800m、 南北900mの範囲に広がる、縄文時代から中世までの複合遺跡で、遺構群は年代により、6段階に区分され、飛鳥から奈良時代初期の官が、寺院が主体をなす。
大和朝廷の勢力拡大と共に道奥国で、蝦夷の地への進出の最初の拠点として設けられ、多賀城以前の国府であった。